双極性障害って名前わかりにくい。躁鬱のまんまのがわかりやすいと思う

2010年診断される。書いてることに一貫性がありません。軽躁状態と抑うつ状態では体だけでなく気持ちテンションも全く異なります。

十人十色

みんな生きづらさを感じることがあると思う。

 

私も幼少期から母親にはいつも叱られてばかりで

褒められた記憶があまりない。

絵を描くことが好きでそれを見せると褒めてくれたくらい。

 

幼少期は本当に泣き虫で、周りの友達にもよく揶揄われていた。

小学校に上がる年長さんの頃、私は算数なんてできるんだろうか…っと幼いながらに不安だらけだったのを今でも覚えている。

 

他人のちょっとした言動や行動にとても敏感だった。

 

最近急激に自分の中で気付かされたことが

多々あり、これまでの自分の人生の点と点が

繋がった感覚がある。

 

それは躁鬱だと診断され、そのことにも通づるものがある。

 

幼少期の泣き虫は、大人からは泣くなとか言われ、強くなりなさいと言われた記憶がある。

でもそれは大人になるにつれ、泣くことも少なくなる。これは強くなりなさいと言われてそうなったわけではない。

たぶん人間ならみんなではないが通過するものなんだと思う。

 

なぜ泣き虫でいてはいけないのか?

なぜ強くならなければいけないのか?

 

大人になればなるほど理不尽なことは当たり前にあるからそれを超えられるように言ったのかもしれない。

 

でも、自分で言うのもおかしいけど

それだけ感受性が豊かだということ。

 

日本は特に周りに合わせないといけないと

いう考え方が非常に強い。

 

でもタイトルのように十人十色。

みんなそれぞれ違って当たり前で、なぜ周りと足並みを揃える必要がある?

 

足並みを揃えないと、社会が崩壊する?

ある意味ではそのことを恐れている人々がいるんだろう。それはなぜか…?

 

 

書きたいことが多く全ては書ききれないけど

30代になり、こんなにハッと気付かされた。

 

世間はこうだから、こうやって生きなければいけない。それは誰が作った?

 

感受性が豊かな人は生きにくいだとか

そういうふうにネガティブな考え方を刷り込んだのは誰?

 

勝ち組、負け組。

それは何を基準に言っている?

世間一般にはいい大学をでて大企業に勤めれば勝ち組?幸せ?

人と比べるから勝ち組や負け組。

お金を持っている、持っていない。

持っても持っていなくても自分じゃない?

 

この作られた世界ではお金を持てば裕福な生活はできるけれど、お金は所詮紙切れ。

 

自分の心にどうしたいのか、直感を信じること。

自分の心にしっくりきたことを信じること。

 

うまく書けなかったけれど、

わかった途端、心がとても軽くなった。

 

もちろん社会にいれば重い暗いエネルギーに

支配されることばかり。

これは仕方がない。

どうしても無理ならば休めばいい。

 

またそしたら心が軽くなる。

自分の心に問いかけて。

 

 

 

月明かり

東北でまだ大きな地震が発生したのを

Yahoo速報から見てそれからテレビをつけた。

 

ここ数年はテレビはほぼ見ずにYouTubeばかり

見ている。

見ているものは、その時その時で興味が変わるため様々。

 

地震が気になって、テレビを見ていたら

そのままこの時間まで寝れずに、もう今日は一服しないつもりでいたのに、ベランダに出た。

YouTubeでニュースを見ながら一服したが、

ふと携帯の明かりが消えた時、頭上は少し明るかった。上を見上げると満月だったよう。

 

このブログを始める前に、どこかで躁鬱のことを少し書いていたことがある。

その時も今と同様、ただ自分が何か書きたい時に自分のために書いていた。

ふと、どこから見つけたのかわからないが、通りすがりにコメントを残してくれた人がいた。

 

誹謗中傷ではなく、はっきりと覚えてはいないが、とても優しいコメントだったことを覚えている。どこの誰かもわからない人に励まされた?なんと例えれば良いのかわからないけれど、プラスな感情になるようなことは確か。

そんな人もいるんだなあってありがたくなった。

記憶が蘇る。

 

こうやって書きたくなる時にふと過去のブログを振り返る。今の自分の書きたいことだけでなく、過去はそんな風に感じて、過ごしていたのかと自分自身、何というか思うところがある。

 

リリース当初プレイしていた、ポケ森を最近また始めた。昔のアカウント?はなくなっていて、新しく。

これもまた、すぐ飽きるとは思うがそれはそれで良いと思う。何もないよりゲームしたりで気を紛らわせているんだと思う。

自分のやれる範囲でやれることをやれば良いと思う。

 

相変わらず、将来に期待はないし、不安ばかりで、生きる気力はやはりない。

でも死ぬ勇気もない。

こうやって歳だけ取っていく自分が惨めに感じ嫌になる。

けれど、どうしようもないし仕方ない。って。

 

 

変わりゆく世界

このアプリは携帯の画面にあるし、

何度か買いてみようと思ったけど書かなかった。

現在も元の職場でパートとして働いています。

 

病院にも1年通っていません。

これは自己判断です。

私が行く病院は予約がなく、3時間は最低待ち時間があり酷い日は6時間程あります。

これも理由の1つではありますが、

極度の貧血があり治療せず放置していました。

今年に入りやっと病院で鉄剤を処方して

もらい、それもあり体のだるさなど改善

されました。

 

躁鬱を信じられず、病気でなく性格なんではないか?と悩み続け、でもこのブログを見ると確かに鬱状態もあり、今の生活のなかであれほど落ち込むこと、思考停止することもなく、

小さな範囲ではもちろんあります。

過ごしています。

 

最近は確かに酷い状態の時は薬に頼るべき

なのかもしれませんが、今はその薬さえ

少し疑うようになりました。

もちろん個人差もあり、それが効いていると

感じるならば良いかと思います。

そして、10年ほどの付き合いのある主治医に

対しても不満等はありません。

 

年々、人と会うことが外に出ることが

嫌になり、仕事や病院最低限でかけないといけない日以外は家に引きこもっています。

コロナの影響で引きこもっていても周囲の目を気にせず過ごせることは私にとっては少し気持ちが楽です。

 

色々と歳を重ねると独身であっても

色々先のことを考えてしまうことがあります。

先のことを今考えてもどうしようもない

ことはわかっていても。

 

希望とか明るい未来とか全然期待もしないし

現状維持できればこれほど幸せなことは

ないとも思います。

けれど、諸行無常の世の中なので変わっていくことが当たり前なのです。

良い方向へも悪い方向へも…。

 

死ぬ勇気もなく、生きる気力もありません。

世の中に嘆くこと?

そんなこともちろん無意味だと思います。

 

誰かに助けてもらいたいとかそういうことではなく、もちろん自分自身の考え方、動き方ありきです。

 

それにしても、コロナによりさらに生きづらい世の中になり、これから先世界はどのような方向に向かっていくのか…と思うとゾッとします。

 

どこでも

現実逃避にゲームを始めてもゲーム内でも

嫌気がさしてまた居場所がなくなった気がする

 

最近はまたほんと何をしても楽しくない。

元々趣味があったわけではないけれど。

 

コロナのせいもあるのかもしれないけれど

漠然とした不安。

 

気を紛らわすゲームでさえも疲れたらもうどうしようもない。

 

孤独感

どうしようもなく寂しいと思う時

幾度とあるけど、歳を重ねるにつれて

仕方ないって思うようにしてるけど

それでもとてつもなく孤独と空虚が

目の前にやってくる。

 

ほんまにここ1年生きてるのか死んでるのか

わからんくらい生きることについて

どうしようもなく生きてることがつらい。

うまくあらわせないけれど

 

吹いたら消えるような

吹いて消えればいいのに。

 

この空虚はどこからくるんやろか

考えても仕方ないし答えもでない。

 

 

希死念慮

ここ最近本当に頻繁というか

続いている。

それも朝夜関係なしにふと起きる。

鬱状態のときはもちろん希死念慮はあったけれど、いまはある程度落ち着いているはずなのに頻繁に?言葉が難しいけれど希死念慮が消えない。消えたとしてもまたふとわいてくる。

 

いまも徐々にじわじわと希死念慮がきて

どうしようもなくてブログを書く。

 

躁鬱とともに希死念慮まで一緒に

やっていかないといけないか。

今度の診察で先生に言おうと思う。

 

常ほぼ死んでしまいたいと思う。

なんなんだろう。

消えたいが死んでしまいたいとなってる。

いまもこうやって書いていても頭の中で

ぐるぐると回っている。

 

毎日が耐え難くこの先何年生きていくんだろ。